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紀要31号(6)二つの文欟木厨子

高さが異なる宝物模造品


模造の赤漆文欟木厨子(いずれも東京国立博物館蔵。宮内庁正倉院事務所提供)

 宮内庁正倉院事務所では、明治から昭和初年にかけて行われた正倉院宝物(当時は御物)の修復経緯や模造品の調査を順次行っている。同事務所が現在取り組んでいる修復や復元模造のように詳細な記録が残されていないため、当時の経緯を明らかにすることが今後の宝物保存に役立てることができると考えているからだ。「正倉院紀要」第31号では、東京国立博物館に保管されている正倉院宝物関連資料の調査結果を中間報告として掲載している。このうち最も注目されるのが、高さの異なる2つの宝物模造品「文欟木厨子(ぶんかんぼくのずし)」だ。この違いはなぜ生まれたのだろうか。

 

 正倉院宝物「赤漆(せきしつ)文欟木御厨子」は高さ74.2センチ、幅約85センチ、奥行き約42センチ。文欟木とは、木目の美しいケヤキの呼称で、これに蘇芳をかけ、生漆を塗って仕上げた、観音開きの扉を持つ収納具である。内部は2枚の板で3つに仕切られている。「国家珍宝帳」の2番目に記された、とりわけ重要な宝物で、天武・持統直系の天皇にのみ相伝されたことが知られる。破損していたのを明治期に修復された。2つの模造品も、この修復に際して作られた。

 東京国立博物館蔵の2つの模造品のうち、先に作られたのは高さの低い方で、明治27年の製作。

 高さ約74.2センチ。内部に棚は1枚しかない。その後明治31年に作られたのが、宝物とほぼ同じ高さ99・8センチのもので、内部の棚も2枚になる。ただ、下部のデザインや天板の形、金具などはよく似ており、幅や奥行きも宝物とほぼ同じ。高さだけが大きく修正されたことがよくわかる。

 

修復やり直しの“物証”

 

 修復と模造にかかわったのは、宮内省や帝室博物館で宝物の保存整理に携わった稲生真履(まふみ)と、木工家で正倉院御物の修理を行った木内半古である。

 調査した宮内庁正倉院事務所の西川明彦整理室長によると、木内は宝物修理の際に、当初は高さがわからなかったために棚を1段として修復したものの、のちに側板が見つかって棚が2段と判明したので再修理したという。また、稲生も、新補部を取り壊して再び旧物で補ったと記している。

 すなわち、高さが違うこの2点の模造品は、「赤漆文欟木御厨子」を修理復元するにあたって作られたもので、宝物の修復をやり直したことを示す“物証”ともいえる。

 もし側板が見つからなければ、「赤漆文欟木御厨子」は高さの低いかたちで修復されたままだったかもしれないわけだ。実際にはさらに、昭和40年代の宝庫内調査で、「赤漆文欟木御厨子」の床板が発見されている。それはヒノキの板で、床板はケヤキではなかったことがわかっている。「赤漆文欟木御厨子」の破損はそれほどに著しく、苦労を重ねて修復されたことがうかがえる。別の言い方をすれば、今では行うことをためらうほど、かなり大胆な修復を施したことになる。

 

 正倉院宝物の模造や修理は明治25年から本格化し、大正時代末から昭和初年にかけては関東大震災(大正12年)の影響で、「原品万一の場合」を想定してさらに精密な模造が行われた。これらは昭和47年以降現在も続く宮内庁正倉院事務所の模造事業にも生かされているが、古い模造品や関係する記録はまだじゅうぶんに調査されてはいない。

 西川室長は「宝物を今、詳しく観察しても、どこをどう修理したかわからない場合がよくある。模造品や関連資料を調べることで、修理をする前の姿やその過程を明らかにすることができる。日本の近代工芸史を探る材料にもなる」と話している。

(読売新聞大阪本社記者・戸田 聡)

2009年10月30日 読売新聞)
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