多くの苦労があるからこそ、いい写真が撮れる
今回は、鉄道写真家として活躍されている持田昭俊さんにお話を伺いました。
鉄道会社の委託契約カメラマンとして仕事をしたり、雑誌に連載記事を書いたり、写真コンクールの審査員を務めるなど、幅広く活躍されています。
1歳の頃から既に鉄道が大好きだったそうで、後にカメラマンの夢を実現させた持田さんに、子どもの頃や、プロになるまでのことなどを語っていただきました。
持田昭俊(もちだあきとし)さん
東京都墨田区生まれ。1歳のときの高熱が原因で聞こえなくなった。小学6年まで江東ろう学校、中学、高校は一般校に通った。筑波大学附属聾学校高等部専攻科のデザイン科卒業。28歳の時、キヤノンサロンで開いた個展に応募した作品が選ばれ、その時にプロカメラマンになることを宣言、以来、鉄道カメラマンとして活躍中。45歳。
―――列車が好きになったのはいつ頃からでしょうか。
1歳の頃ですね。母に聞いた話ですが、病院へ通っていた時、いつも泣いていたので、なだめるために近くを走っていた列車を見せに連れていくと、不思議なことにピタッと泣きやんだそうです。
東武鉄道の日光線を走る特急列車の「けごん」や「きぬ」が、一瞬の華やかなオーラを出してやって来るのを見ると、とてもわくわくしていたと聞きました。電車のおもちゃもその頃から買ってもらっていました。
―――小学生の時はどんな子どもだったのでしょうか。
総武線の小岩駅から亀戸駅まで電車で通学していたのですが、その途中に車窓から見える新小岩機関区でSL(蒸気機関車)がたむろしていました。毎日車窓から眺めては、SLに向かって敬礼しながら学校へ行ったものでした。
通っていた学校では、当時、冬になると石炭ストーブを使っていたのですが、SLの機関士になったつもりで、燃料の石炭を入れていく作業が楽しくて、その当番が回って来るととても嬉しかったことをよく覚えています。
給食で出た牛乳びんをストーブの上にあるヤカンに入れて、それが水蒸気でコトコト動くのを見るのも楽しかった。放課後になると、石炭ガラをバケツに入れて捨てにいくのですが、捨てる時は石炭が水を含んで重いのでみんな嫌がりました。僕はそれも喜んでやるそういう子どもでした。
ファーストショットとなった写真
撮影日:昭和47年8月12日(小学6年の時)
撮影場所:山陰本線米子駅
昭和45年、大阪万博を機に東京から蒸気機関車が消えた。家族旅行で山陰を訪れた時、米子駅で2年ぶりに蒸気機関車と再会できた感動のあまり、はじめて撮った鉄道写真(持田昭俊)
―――初めて列車の写真を撮ったのはいつでしたか。
僕が4年生の時、いつも車窓から敬礼していたSLが消えてしまったのです。「どこに行ったのかな?」と、とても不安でしょうがない程でした。後で両親から「北海道や九州、山陰に行ってしまって、東京からはなくなってしまったんだよ」と聞かされた時はショックでした。
それまではずっと見るばかりで写真を一枚も撮っていませんでした。写真を撮りたいと思っていた時、ちょうど家族旅行で山陰本線の米子駅へ連れて行ってもらい、SLと再会することができたのです。もう大喜びで父のカメラを借りて撮ってみました。それが僕の記念すべきファーストショットになりました。
新小岩で見たSLと同じD51(デゴイチ。SLの代名詞とも言われる)だったので、すごく嬉しかったですよ。同じ頃、鉄道100年記念で東京にSLが帰ってきた時も、大喜びで父と出かけていって撮影しました。人がとても多くて、唯一うまく撮れたのが後ろ姿だったけれど、それからはまりましたね。カメラ小僧だったと言ってもいいぐらい(笑)。
―――中学生の時はどうでしたか。一人旅にも行ったのですね。
上野駅や東京駅に出かけて行っては、特急列車をたくさん撮影しました。2つの大きな駅から出入りする列車は対照的で、上野駅から東北に向かう「ひばり」や「はつかり」はふるさとの雰囲気を醸し出し、東京駅から出る「さくら」「はやぶさ」「富士」「あさかぜ」「出雲」など、伝統のある列車名のごとく、華やかな雰囲気を出してくれたものです。
3年生の時、初めての一人旅で急行「銀河」に乗って大阪へ行ったんです。阪急梅田駅でたくさんのホームがずらりと並んでいるのを見てびっくり。阪急電鉄が全国に先駆けて初めて設置した自動改札機も見ました。京都・河原町行きの特急に乗った時は、タバコ1本立てても倒れないぐらい揺れが少なかったことに感動。車体のマルーン色も渋くて好みだったことから阪急電車が大好きになりました。私は古くて新しいのも好きで、この旅がきっかけで、近鉄電車や新幹線、路面電車などにも幅広く興味を持つようになりました。
本当は、北海道でたった一つ残っていた最後のSLけん引旅客列車「さよなら運転」を見に行きたかったのですが、耳が聞こえないからという理由で両親の許しが得られずに断念せざるを得ませんでした。その悔しさが高校に入っても忘れられず、電気機関車や電車を猛然と撮り始め、いつしか感覚的なものを重視した鉄道写真に開眼したようです。
―――その頃にはどんな撮影をしていたのでしょうか。
ちょうど写真の表現方法の面白さが分かりかけて来た頃でした。高校の入学祝いに母に買ってもらったキヤノンの「AE−1」という一眼レフで、電車の動く早さに合わせてカメラを流す技法の「流し撮り」をしたり、シャッターボタンを押している間はシャッター幕を開いたまま撮影する「バルブ撮影」などを自分なりに楽しんでいました。
高校では写真部に入っていたのですが、文化祭が終わると部員も来なくなって、暗室は独り占め状態。印画紙の像が浮き上がるたびに一喜一憂しながら現像のコツもつかんでいきました。
―――学校では友達と鉄道について語り合ったりもしたのでしょうか。
通っていた高校はスポーツの盛んな学校だったので、一緒に鉄道の話を楽しむ友達はいなかったですね。それに、当時は「鉄道が趣味」という人はごく少数派でしたから、私もあえて話はしなかったかな。
絵本「まちからうみへ はしれ江ノ電」
(ぶん・しゃしん 持田昭俊)
―――プロカメラマンになることを意識したのは。
高校時代から目指していたのですが、両親には「食べていけないよ」と反対されました。父がジュエリーメイキングの仕事をしていて、父と一緒に仕事をするため、筑波大学附属聾学校専攻科のデザイン科に進学したのです。
小学校では毎日SLを描いていたほど、絵が好きだったので、ジュエリーデザインをしようと思ったからです。2年間勉強した後、ジュエリーカレッジにも3年通い、デザイン画を描いていました。
―――専攻科に通っていた頃は、写真は撮らなかったのですか。
在学中にもやはり「プロカメラマンになりたい」という気持ちはありました。先生に相談したこともありましたが、両親と同じ意見で「現実を見るように」と言われました。ジュエリーカレッジを卒業後、僕がジュエリーデザインを描いて、父がそれを作るという共同作業で仕事をしていましたが、写真は休みの日に撮り続けていました。
そして撮りためた写真を発表できる機会はないかと思っていた時に、キヤノンサロンで開かれる個展の応募要項を見て、成果を試すつもりで応募しました。プロカメラマンへの登竜門ともされるチャンスでした。
その結果、競争率10倍という中で選ばれたんです。「やったぁ!」と思いましたよ。「僕の写真がみんなの目に触れる」「写真を通して鉄道の素晴らしさを知ってもらえる」と思うと嬉しくてたまりませんでした。それまでは両親や限られた友人にしか見てもらったことがなかったから。
―――この時、プロのカメラマンとしてやっていこうと決めたのですね。
個展初日の夜にオープニングパーティーがあり、両親や専攻科の先生、友人が50人ほど駆けつけてくれました。そして、その場で私はプロになることを宣言しました。28歳でした。父もこの時は「自分で決めたなら」と反対しませんでした。
しばらくは、ジュエリーデザインの仕事と2足のわらじでしたが、最初の2〜3年は、写真が全く売れませんでした。代理人に頼んでいろいろな新聞社や出版社に連絡し、写真を見てもらおうとしましたが、電話口で断られたことも数知れず。
(2005年09月16日 読売新聞)