一緒にできるために壁をなくしていくことが必要
今回は、リスニングや面接の際、聞こえない人には字幕テロップや筆記を取り入れるという方法で、2004年3月、英検1級に合格した秋山奈巳さんにお話を伺いました。
このような方法で受けられるようになったのは、まだ最近のことです。それまでは、問題を解く以前に、スピーカーから流れる英語や面接官の話をどうやって聞けばいいのか、という状況だったといっても過言ではありませんでした。
秋山さんに、英語が好きな理由や留学先のアメリカで学んだこと、大学に編入したきっかけ、過去の英検を受験した時のことや合格への思い、課題などについて語っていただきました。
秋山奈巳(あきやまなみ)さん
大阪市出身。3歳半頃に聞こえないことがわかる。短大の英文科を卒業後、三井物産の関連会社に4年間勤め、その後1年間アメリカ・ワシントンDCのギャローデット大学(聴覚障害者のための総合大学)に留学。2001年4月、同志社大学(文学部社会学科)に編入。現在は、英文科の科目履修生として通いながら、全国手話研修センター(京都市右京区)でアルバイトをしている。32歳。
―――初めて英検を受けたのはいつでしたか。
18歳の時です。2級の受験で、一次試験はリスニングがありましたが、ライティング(筆記)だけで受かったようなものでした。二次試験の面接では、面接官の話が分からず、結果は当然不合格。
短大の英文科に在学中だったので、2級ぐらい取れて当たり前という雰囲気の中、大変落ち込みました。友達が「前もって聞こえないことを紙に書いて渡しておいたらどう?」と提案してくれ、もう一度受けたのですが、配慮はありませんでした。
この時、「英検はもう二度と受けない!」と決めました。英文科なのに英検を取れないのは悔しいけれど、置かれた状況の中でできることをしようと思い、ワープロ検定、英文タイプ検定、秘書検定、ビジネス文書検定などの資格を取りました。
―――短大ではどのように勉強していたのでしょうか。
「入学後は一切サポートなし」というのが入学の条件だったので、受けたい講義よりも友達に合わせた講義に出席し、友達のノートを見せてもらったり、コピーさせてもらったり、図書館で本を読んだりしていました。
でも、英文科に欠かせないリスニングや英会話の授業では、聞こえないことをごまかせません。リスニングの試験で、答案用紙が白紙だったことから「聞こえないことをどうしてもっと早く言わないのか」と担当の先生に言われ、話し合う機会を持つことができました。
アメリカ人の先生だったのですが、「聞こえない人にリスニングの試験問題を渡したのは恥ずかしいこと」と言われました。
筆記部分のみで採点して下さったのですが、リスニングとスピーキングが聞こえる学生と同じようにできないという劣等感から、「英語はやはり聞こえる人の言語。聞こえない人が英語を獲得するのは難しいのかも」と思うこともありました。
―――「サポートなし」が入学の条件、という大学は今も残っているようですね。聞こえない人にも学ぶ権利はあるはずです。英語が好きになったきっかけは何だったのでしょうか。
中学1年の時、英語の授業で当てられ、先生の言っていることがわからなくて答えられず、立たされたことがありました。「聞こえないことは事前に学校側に伝えていたはずなのにどうして?」と、大変不愉快な思いをしましたが、翌朝、校門で先生が待っていて「昨日はごめんなさい」と謝ってくれたのです。
先生は私が聞こえないことを知らなかったそうで、それ以来、授業でもいろいろと気にかけてくれるようになり、私も英語を一生懸命勉強するようになったのです。2年の時、先生が替わったのですが、私の入学当初から学校に手話サークルができ、新しい先生は手話を覚えて授業でも使ってくれるような方でした。
他の教科の先生は手話でなく口話だけだったので、そんな中で私がちゃんと理解できた授業は英語だけだったんです。
―――将来は好きな英語を生かして何かしたいと考えていたのですか。
はい。中学の時からアメリカに行きたいと思っていて、両親にそのことを話したら、「(耳が聞こえないから)日本語も不完全なのに、ましてや英語なんてとんでもない。言葉がおかしくなってしまう」と反対されました。私は無理とは思っていなかったんですけどね。
高校生になったら交換留学で行こうと思ったのですが、リスニングテストに合格することが条件で、「結局、聞こえる人のためのものなんだ…」と、それもあきらめるしかありませんでした。
―――アメリカ行きの資金を作るためにアルバイトをしたそうですが。
はい。でも、女性の募集は、受け付けやレジ、ウェイトレスなど客とのコミュニケーションを必要とする仕事ばかりで。他の、例えばお皿洗いなどの仕事をさせて欲しいと頼んでも、それは男性のみだからと断られたり。そんなわけでなかなかお金が貯まらず、アメリカ行きはもう少し先にせざるを得ませんでした。
今ではそういうこともなくなってきているのでしょうが、私の中学・高校時代は、外で手話を使うと周りからじろじろと見られる時でした。ろう学校の見学に行った時、生徒たちが先生のいないところでは手話で話し、先生が来たら手を引っ込めるのを見て、ろう学校でさえ手話の使用を禁じていたことにショックを受けました。
―――その後、アメリカ行きが決まった時のことを教えて下さい
23歳の時に、ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業で、世界中のろう者が集まってくることで有名なギャローデット大学に1年間留学しました。アメリカのろう者はどのように生活しているのかを知りたかったのです。
留学当初はアメリカ手話ができなかったので、わからなくて大変でした。私は英語は分かるけれど、そこは英語をしゃべる場ではないのです。筆談もなく、手話のみ。3か月ほどでなんとか日常会話程度の手話を覚えましたが、その間、英語力は上達していないような気がして焦りもありました。
発表は手話でないとダメ。聞こえる人の言語である"英語"のことは忘れて、"手話"で自分の意見を言えることが大事。英語のつづりや文法の間違いより、手話で自分の意見を言えるかどうかで評価がつけられる。そんなところでした。
―――日本とは違いますね。戸惑ったのではないでしょうか。
そうですね。ろう学生の学位取得に対する熱意にも驚かされました。私はよく「どうして大卒ではなくて短大卒なの?」と聞かれました。
アメリカでは手話が"言語"として認められていて、例えばろう者でも大学で手話を専門に勉強すれば、卒業後は各地の大学で手話を教えるといったように、自分の専門の職に就くことができるのです。
もちろん、手話だけでなく幅広い分野で聞こえる人と同じように活躍できる場があります。
日本でも"言語"として認めてもらわない限り、聞こえない人には生きづらいですね。「なぜ困るのか、どうして欲しいのかをはっきり言っていく、行動を起こしていく」ということを留学生活で学びました。
日米の違いを知って今のままではダメだと思い、帰国後しばらく働いてから、大学の編入試験を受けました。日本で仕事に生かせる資格を取ろうと考えたからです。
(2004年08月26日 読売新聞)