お棺には、遺体のちょうど顔にあたる部分に蓋(ふた)がついている。お別れのとき、その窓を開けて死者との最後の対面をする。最近、その窓にむけてケイタイをかざし、記念写真をとるものが現れるようになったという。が、それも今さら驚くにはあたらないことなのかもしれない。
私も、ときどき葬儀に出る。公的な会場に出向くことがある。個人の家に顔を出すこともある。そんなときまっさきに目に飛びこんでくるのが、故人の大きな顔写真である。祭壇に飾られ、黒枠の中におさまっているクローズアップ写真である。出棺の前だと、そのそばに白布で覆われた白木のお棺が横たえられている。出棺の後の場合だと、白布に包まれた遺骨が供えられている。しかし遺体や遺骨そのものは白い覆いの下に隠されて、所在がかすんでいる。
故人の写真だけが、今にも参会者にむかってにこやかに語りかけてくるかのように、眼前に大きく飾られている。もちろん祭壇にはたくさんの花々がいっぱい供えられている。白や黄の清楚(せいそ)な花束が積み重なるように写真をとり囲んでいる。そしてそのわきに、故人の位牌(いはい)がそっと置かれている。あたかも説明板のように、寂しげな立て看板のように……。
葬儀がはじまる。読経の声がきこえ、告別や追悼の言葉が場内に流れ、すべての音声がその場に飾られている写真の中に吸い込まれていく。その一つひとつの言葉に耳を傾けるかのように、黒枠に囲まれた主人公がじっと聞き入っている。
葬場の写真の顔をみつめているうちに、死者が突然そこに蘇(よみがえ)ってきているように、ふと感ずる。白いお棺や骨箱から不意に立ち上ってきて、オレはまだ死んではいないよ、と参会者に語りかけているかのようだ。はてさて、葬儀とは死者をあの世に送りとどけるための儀式だったのではないか。けれども、位牌やお棺を脇にしたがえて飾りつけられている眼前の写真の顔は、むしろ生き生きした微笑さえみせて会場いっぱいにシテの役割を演じている。
もっとも写真をよくよく観察してみると、首から下の部分は慎重にカットされている。だから半身像というのともすこし違う。また表情はたいていの場合にこやかな微笑をたたえているが、哄笑(こうしょう)や破顔の気配は避けて感情の表出が抑制されている。
その抑えられた表情が、どこか能面の中間表情に似ていないこともない。能面は距離をおいてみているとかぎりなく死者の顔に近づくが、目を近寄せていくと生々しい喜怒哀楽をかいまみせる。そのどこかあいまいな中間表情が、死と生のはざまをさ迷っている人間の、いまわのきわの表情を浮かび上らせる。そういえば能の舞台に登場する主人公たちも、そのほとんどが亡者だったではないか。その点でも葬場に飾られている故人の写真は、能面がかもしだす雰囲気にそこはかとなく通じている。その演出の手つきが、能舞台のそれに似ている。
葬場に飾られる写真の表情は、おそらくその舞台裏では人知れず加工や修正を加えられているのであろう。何しろ死者は、これから苦と悲しみの六道輪廻(りんね)の旅に出るのであるから、それにふさわしい化粧をほどこしておかなければならない。そういう点では、現代最先端の「写真」葬儀のやり方のうちにも、われわれの先祖たちが慣れ親しんでいた古代的観念がすでに宿っているのかもしれない。
それにしても今日の葬儀や密葬、そして告別式や偲(しの)ぶ会などで愛用されるようになっている「故人の写真」は、本当のところ、いったい何を意味しているのであろうか。はたしてそれは、死者を送るためのとっておきの奥の手であるのか、それとも死者を瞬間的にでも現世に蘇らせようとするセンチメンタルな仕掛けにすぎないのか。それがよくわからないのである。どうやらわれわれは、そのどちらともつかない中途半端な世界に、いつのまにか投げ出されてしまっているのかもしれない。